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レース会場では子供を大事にしたいよね、
車好きな大人になってほしいんだ

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50th SPECIAL INTERVIEWオートバックス50周年アンバサダー 特別インタビュー

土屋 圭市KEIICHI TSUCHIYA

オートバックスとの出会いやこれまでの歴史、
今後の抱負やオートバックスに
期待することなどをお話しいただきました

ARTA土屋圭市さん特別インタビュー! movie start

オートバックスとの出会い

2000年に僕がARTAに入って感動したのは、オートバックスがお店のピットスタッフのスキルを上げるために、スーパーGTに研修に来させていたことかな。それはもうびっくりしましたよ。オートバックスってスポンサーじゃないんだ。一緒にやってるんだって。そのピットスタッフたちは何かを学んで店舗業務に生かしてるんだろうなって。
ただのスポンサーじゃなく、鈴木亜久里と一緒のパートナーなんだな。一緒にこのレースっていうものを盛り上げてるパートナーだなっていうのを感じましたよ。今までそんなスポンサーと出会ったことがなかった。

鈴木亜久里との出会いについて

90年代に鈴木亜久里がF1ドライバーの頃、僕がフジテレビのレポーターでヨーロッパのF1に行った時、鈴木亜久里の方からF1やめて日本に帰ったら一緒にレースやろうって言われたのがきっかけです。だけどマスコミは誰も信じなかったですよ。水と油なんで。(鈴木亜久里は)エリートでしょ、(俺は)ハコの走り屋みたいなもんでしょ、、だから日本のマスコミは亜久里の社交辞令だろうって信用しなかったよね。それがきっかけなんだ。帰ってきたら本当に真剣に一緒にやろうって電話がきたから、社交辞令じゃなかったなっていうのが始まりですよ。鈴木亜久里と土屋圭市が組んだら世の中びっくりするよっていうのが始まり。

そして2000年にARTA NSX GT500で鈴木亜久里とドライバーコンビを組んだんだ。組んで感じたのはセットアップの違いです。やっぱり世界を知ってる奴のセットアップってのは細かいなっていう。あとはそのテンポが早いなっていうのはありましたよね。それまで日本人としかレースをやったことがないから、日本人はもうマッタリマッタリとセットアップをしていく感じ。開発テストも車のセットアップにしても2,3日かけてやる。鈴木亜久里のセットアップってのはもう、ものすごくシステマチックに仕上げていく。そこはちょっとびっくりしましたよ。今まで組んだ高橋国光さん、高橋健二さん、鈴木恵一さんがいい加減だったっていうわけじゃないんですよ。日本ってそういうものだった。すごくマッタリした中で車を仕上げていく。アバウトに仕上げていく。鈴木亜久里は理論に基づいて数字に基づいて仕上げていくっていうタイプ。

ARTAプロジェクト加入について

2003年にドライバーをやめた時は、長野に帰って百姓やるつもりだった。あんまり執着がないんです。だから鈴木亜久里からやめてどうすんのって聞かれて「長野帰って百姓やるよ」って。(鈴木亜久里)「いや一緒にやろう」、(土屋圭市)「じゃあやろうか」みたいになった。
辞めた原因が面白いんだ。夏ぐらいに鈴木亜久里から「みんな先輩見てみな。ピークを過ぎて辞めていった。いいときにやめた方がかっこいいよ」って言われた。じゃあ、今年でやめようと思ったのが2003年の夏。そうだよな、かっこいいときにやめた方がかっこいいって思ったんだ。

そしてARTAのエグゼクティブ・アドバイザーになった。ARTAに入ってびっくりしたのは金石年弘や松浦孝亮、伊沢拓也にしても、彼らが若い頃から鈴木亜久里が面倒見て育ててきて、プロにしてるっていうのがちょっとカルチャーショックでしたよ。すごいことやってるんだなこの男って。レーサーを目指す子供たちを育てて、飯が食えるようにしてあげてるってすげえなっていうのは感じましたよ。

スーパーGTではGT500の8号車は勝ちに行く、チャンピオン取りにいくから鈴木亜久里がちゃんとしっかり監督しなきゃいけない。GT300の55号車は若い子を育てたい思いがオートバックスの中にあるんだ。若い子たちを育てる中では「うるせえなこの野郎」って思ってる奴もいますよ。態度を見てればわかる。いるけど俺と関わった以上、成功して欲しいなっていう思いが強い。せっかく俺と何かの縁で巡り合ったんだから、この子を1年で終わらせたくないっていうのはありますよ。だからいちいちうるさいですよ。「後ろに誰かいるぞ」「お前何秒で走ってて、後ろ何秒で走ってるぞ」「お前追いつかれてどうすんだよ」って。言われた方はうるせえなこのやろうみたいな感じ。それはわかるんだけどせっかくARTAに入ったんだから、こっから先5年10年ってプロで食っていけるようにしてあげる。若い子たちに夢を与えて、彼らがちゃんと成功するような道筋を立てる。それが俺たちの責任だろうなと。

自身でのモータースポーツ貢献活動について

やっぱりドリフトですよね。1980年からドリフトのイベントをずっとやってきた。80年90年代って、ニュースではドリフト族って感じに取り上げられていた。やっぱりドリフトの子たちをちゃんと日の当たるところに出してあげたいなって思う。イベントはレースよりもやっぱりドリフトがメインですよね。

オートバックスのレース活動について

鈴木亜久里が俺を雇った時点から、俺はオートバックスのファンを増やさなきゃいけないっていう思いがある。鈴木亜久里が持ってるコアなファンの外にいるプラスアルファのファンを俺が呼んでこなきゃいけないなっていうのありますよ。
23年たって、ようやく芽が出て花が咲いてきた。子供を大事にすることで、大人になって免許取ってオートバックスに来るんだ。俺がずっと子供を大事にしたのはそういうこと。この子たちが免許を取って車好きになってオートバックスに来るよって。
レース会場でも子供を大事にしなきゃ。親は好きで来るけど子供は何もわからず連れてこられるだけだから、子供が気持ちよく帰ることが大事。5,6歳だともう物心ついてるでしょ。物心ついてるけど何だかわかんないで親に連れてこられてる。でもその子たちが今28歳とか30歳。オートバックスに来るでしょ。

子供をいかに大事にできるか、10年後20年後大人になる彼らを。そこをどうやってオートバックスと大事にしていくかが一番の柱になるんじゃない。
高橋国光さんから教えてもらったんだけど、子供と同じ目線で下がって写真撮ってあげると子供が落ち着くよって。高いところで上から見下されると、子供って萎縮するでしょ。でもしゃがんであげると同じ目線だからニコッて笑うんですよ。

50周年を迎え、今後のオートバックスに期待することと、これからの抱負について

一番は子供でしょうね。将来のオートバックスが続くかどうかっていうのは、子供たちをどれだけ大事にできるか。
あとは世の中の動きを見ながらオートバックスも変化していくってことでしょうね。世の中的では電気電気って言われてるけど、電気一辺倒では駄目だろうなってわかってきた。ヨーロッパの状況が変わってきた。そういうものにアンテナを敏感にしておくことでしょうね。少なくとも2035年から世界中が電気になるってことはあり得ないと思う。それに対してオートバックスがどう対応していくかでしょうね。

PROFILE

土屋 圭市

つちや けいいち

  • 1956年1月30日生まれ
  • 長野県小県郡東部町(現:東御市)出身
  • 身長 167cm
  • 血液型 B型
  • 元レーシングドライバー
  • ドリフト走行を多用するそのドライビングスタイルから
    「ドリキン」(ドリフトキングの略)とも呼ばれる
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